地域

地域から探す

  • 日本
  • 北米
  • 中南米
  • アフリカ
  • 中東
  • アジア
  • ヨーロッパ
  • オセアニア
キーワード

キーワードから探す

板垣退助の名言を探る旅!板垣死すとも自由は死せず!自由民権運動の偉人!

板垣退助の名言を探る旅!板垣死すとも自由は死せず!自由民権運動の偉人!

歴史で必習の偉人、板垣退助。100円札になったことや名言を知らない人はいないほどの有名人です。しかし、実は板垣退助の名言には隠された秘密があったのです。板垣退助の真の名言とは、名言の秘密とは、教科書には載っていない逸話と供にご紹介します。

板垣退助の名言と人柄見出し

板垣退助を語る上で外せないのが自由民権運動と自由党です。また自由民権運動中に暗殺されそうになったとき「板垣死すとも自由は死せず」という名言を残したことでも知られています。彼は国民は平等に政治に参加する権利があることをときました。現代では国民に選挙権があることは当然の権利ですが、当時は日本の政治を握っているのはごく一部の人たちだけでした。板垣退助はその状況を変え、日本社会を大きく動かしました。

偉人につきものの名言見出し

偉人のキャッチコピーとも言える名言。誰のかは知らないけど名言は知っているという人もいます。板垣退助も他の偉人たちに漏れず、名言は試験の問題として登場し、あまりに名言がかっこよかったので死ぬ間際に残した名言とまで勘違いしている人もいるほどです。

板垣退助誕生の地、高知見出し

1837年土佐藩、土佐国高知城下中島町で生まれました。現在の地名は高知県高知市本町となり、観光名所として広く名前を知られています。生家はすでにありませんが、板垣退助の生まれた場所を記念した記念碑は1924年5月に建てられ、いまだに訪れる人が絶えません。

住所:高知市本町2丁目3-18(高野寺前)

板垣退助の友人、後藤象二郎

後に自由党を作り総理大臣となる板垣退助。彼が生まれた乾家は藩士だったため子どもは藩校に入学する前に寺子屋で読み書きを学ぶのですが、板垣退助は友人後藤象二郎と一緒に喧嘩や相撲にばかり夢中になっていました。板垣退助とともにわんぱくだった後藤象二郎もまた、自由民権運動や自由党を結成するのに大きく関わった人物となります。

母の名言と蟄居生活

板垣退助は19歳の時、ケンカが原因で蟄居(謹慎生活)を命じられるほどの気性の粗さでした。この時の生活がきっかけで農民たちと分け隔てなく接する時間をすごしたことが、自由民権運動の原点だった説が多いです。また板垣退助は「ケンカはしても弱いものいじめをするな、卑怯なことをして家の名を汚すな」と母親から言われて育ったことを明かしています。高知を出ても、板垣退助の胸には母の言葉と蟄居生活での体験が残っていました。

高知城のそばに建つ板垣退助像見出し

高知城の近く、高知公園内に建つ板垣退助像は同じポーズで写真を撮る人が多い場所です。1923年に一度建てられましたが1943年に戦時中の金属回収のため供出されました。現在建っているのは1956年に再建されたものとなります。幼い頃の板垣退助に接した人たちは、こんな立派な銅像が建てられる人物になるとは想像できなかったでしょう。

住所:高知市丸ノ内1丁目2

当時の世界情勢と日本の立場見出し

欧米や欧州で植民地支配が進められる中、日本は自国を守ろうと富国強兵を始めました。徴兵令施行後は武士は仕事を失い、働き手失った農民は生活が苦しくなり各地で不満の声が高まりました。その声を時代の流れとして受け止める政府に対し、板垣退助は国民の声も尊重するべきだとして対立します。

高知で生まれた名言見出し

1873年、板垣退助は征韓論に敗れ、政治家から一般人へと戻り高知に帰ってきます。しかし板垣退助の心は政治から離れていたわけではありませんでした。自由民権運動を進めるために1874年には「国民が選んだ議員に政治を任せるべきだ」と主張する民選議員設立の建白書を掲げ、政治結社「立志社」を設立します。「自由は土佐の山間より出づ」という名言はここで生まれました。

石碑に刻まれた板垣退助の名言

今は跡地に石碑と板垣退助の言葉が残る立志社ですが、当時1000人の社員を抱え学術思想育成のための教育機関となり士族救済のための商社活動や法律研究、討論会などを行う場となりました。当時士族を視野に入れて始めた教育は農民たちからも参加する者が現れ、高知から始まった自由民権運動はその志を日本中に広げていきました。

住所:高知市帯屋町1丁目11(中央公園内)

自由民権運動の影にあったJSミルの名言

板垣退助はそれまで学問を学んでこなかった人や政治とは無縁だった階級の人たちに自由や権利を伝えるために、JSミルの自由論を使って説明します。その中には「自由とは他人の幸福を奪わず、自分自身の幸福を追求すること」とありました。板垣退助が目指した自由は、少数の利益のものではなく、国民まで広がる大きなものでした。

自由民権運動の本拠地、板垣退助旧邸跡地碑

さらに1975年には愛国社が結成。士族が中心だった自由民権運動は地主や商工業者、農民にも広まり、今まで権利を持たなかった人々は自由民権運動に動かされ大きな流れとなり国会開設の嘆願書には多くの署名が集まりました。高知を拠点に自由民権運動の活動を行い、多くの人が訪れた屋敷跡地には石碑が残っています。

住所:高知市萩町2丁目2

仲間に説いた名言

西南戦争がはじまり立志社でも武力で蜂起の意見が高まり、政府も取り締まりを強化します。武器や弾薬を所持していた容疑で仲間が捕まり武力行使に出るべきだと言う仲間に対して板垣退助は「まず我が立志の民兼を一町より一区に及ぼし、一区より一県に及ぼし、各県全国に及ぼし、衆力一致の上、大政府に向かって為すところあるにしかず」と説き、板垣退助は武力ではなく言論で現政府と戦う準備を始めました。

まだ髭が生えていなかった板垣退助

この頃まだ、板垣退助には髭が生えていなかったといいます。もしもこの頃の写真が100円札に使われていれば、板垣退助の印象は違うものになっていたかもしれません。当時の板垣退助は100円札の肖像画のような立派な髭はなく、鼻筋のきれいな美男子な面持ちをしています。

自由党結成、板垣退助、初の総理大臣に見出し

1881年についに国会が開設され自由党が結成されました。10月18日に自由党は日本初の近代政党として誕生しました。29日に初代総理大臣板垣退助、副総理に中島信行が就任。自由党結成で自由民権運動はついに実を結んだかに思われたのですが、徐々に自由民権運動への取り締まりが強化されます。

板垣退助暗殺未遂事件と名言見出し

1882年、岐阜県で演説を行った4月6日午後6時半頃、中教院の玄関で襲われ板垣退助は負傷します。その際言った言葉が「板垣死すとも自由は死せず。」後世にまで語り継がれる名言が生まれたのです。現在では岐阜公園に当時板垣退助が襲われて名言を残したとされる場所に像が立っています。

住所:岐阜県岐阜市大宮町1丁目7

捏造された板垣退助の名言

長いこと板垣退助の名言と思われていたその言葉は、現在では板垣退助の名言ではないということが一般的になっています。板垣退助自身は「アッと思うばかりで声も出なかった」と言っています。

板垣退助の名言に隠された真相

ではなぜそんな名言が生まれてしまったのか。そばにいた内藤魯一が「板垣死すとも自由は死にませんぞ。」と言った言葉だ、演説に使われた言葉を使用した、という説や新聞記事に載った言葉が板垣退助の名言になったと所説様々です。板垣自身はこの名言は言っていないとはっきり言っているので、板垣退助の名言ではない、というのは間違いないようです。

板垣退助、実は武道の達人だった? 見出し

暗殺未遂となった岐阜事件の時に、板垣退助は殺されたと思っている人が多いです。100円札の肖像画にもなったお髭の老紳士というイメージが強いせいかもしれません。しかし当時板垣退助は40代。柔術を学んでいたことも有り、襲い掛かってきた相原尚褧に素手で抵抗し、左胸を刺されながらも当身をし、さらにその数日後には演説のために大阪に出かけています。命が助かったのは柔術を学んだおかげだと、板垣退助は柔術の師だった本山団蔵にお礼を言い、本山団蔵は喜び免許皆伝を授けました。

相原尚褧は板垣退助に受けた反撃で黒あざができていて、痛みに耐えられないと取り調べ中に訴えたそうです。相原尚褧が板垣退助襲撃に使用した短刀は高知市立自由民権記念館に展示され、自由民権運動の歩みや写真、風刺画や資料、映像等と一緒に見ることができます。

住所:高知市桟橋通4丁目14-3 電話:088-831-3336

過激になっていく自由民権運動見出し

高知から始まった自由民権運動は言論による運動でしたが、厳しい政府からの弾圧にやがて武力も辞さないという考えを持つ人たちも増えていきました。景気の悪化に困窮した農民たちもまた、耐え切れず武器を持って反抗するようになりました。自由党設立後もその状況は改善されず、板垣退助が渡欧している間にも様々な事件が起きます。

自由党解党から憲政党へ見出し

自由民権運動の弾圧が悪化するのに抵抗し状況は悪化、さらに同じ自由党内でも民権派の立憲改進党派に分かれて対立してしまい、板垣退助はなんとか自由党の存続に奔走しますが、かなわず。1884年自由党は解党することになりました。しかし1890年の8月25日、自由党、愛国公党、大同倶楽部が合流して立憲自由党を結党しました。1891年には再び自由党が結成され、1898年6月20日に自由党と進歩党は合同して憲政党を結成した。

板垣退助の晩年見出し

1900年、板垣退助は政界を去り、1919年7月16日に死去しました。板垣退助の墓は東京都品川神社裏の旧高源院にもあり、分骨が高知に埋葬されました。晩年の板垣退助はあまり裕福ではなく、元総理大臣とは思えないほどだったといいます。自由民権運動に私財を投じたことが後々の経済状況に大きく関わっていたようで、電話代も払えないような状態もあったということです。しかし板垣退助には4人妻がいるため、自由民権運動だけが原因とは言い切れないのも事実です。

歴史のあちこちに見る捏造名言見出し

板垣退助に限らず、ナポレオンやエジソンといった歴史上の偉人達には名言が残っていますが、後々「そんなこといっていない」「解釈の仕方がまちがっている」ということがあります。偉人たちに添えられる捏造名言は、周りの人たちからの尊敬や憧れが混ざって作られるのかもしれません。

後に本当の名言が生まれる見出し

暗殺未遂事件の犯人、板垣退助を襲った相原尚褧は温厚な性格の小学校教諭で、板垣退助を襲ったことを謝罪しています。板垣退助は相原尚褧が謝罪に訪れた際、彼を許し「私の行動が国家の害と思ったら、もう一度刺してもかまわぬ」と言ったといいます。自分と同じ日本の未来のためにと行動したことだと許し、自分を刺した相手にもう一度刺してもいいと言うこの言葉こそ、板垣退助を表す名言です。

ルイヴィトンと板垣退助見出し

女性に人気の高級ブランドルイヴィトン。じつは、板垣退助とルイヴィトンの間には深い関係があります。なんと板垣退助は1982年~1983年の渡欧の際にルイヴィトンのカバンを買っているのです。ルイヴィトンの歴史を振り返る展示会にも、当時の原型をほぼとどめたまま公開されました。

ルイヴィトンの顧客名簿に名前が残っていたため、長い間日本人初のルイヴィトン購入者は板垣退助だ、というのが歴史家の通説でした。しかし、それよりも5年早く在仏特命全権公だった鮫島尚信と一等書記官の中野健明がルイヴィトンの顧客名簿に名前があり購入していたことが分かりました。

ルイヴィトンのデザインは今と比べると地味ですが畳や板の間にあっても違和感ないデザインをしているため華美には感じません。板垣退助も実用性を重視した結果ルイヴィトンを選んだだけで、まさか現代では日本女性も大好きなオシャレの代名詞となるとは思わなかったでしょう。ルイヴィトン160年の歴史を振り返る展示にて公開されたそのカバンは、板垣退助の長い旅路を物語っていました。

自由党を立ち上げ、自由民権運動を掲げ政治の世界で戦った板垣退助は日本人に等しく自由と権利を与えられる世の中にしたいと思っていました。それでもまだまだ女性には権利が与えられなかった時代。若い女性たちが100年後ルイヴィンの高価なカバンを買い求め、ルイヴィトンのお財布や時計を付けた女性たちが政治に進出してくるなんて想像できたでしょうか。

板垣退助は二度お札になる見出し

板垣退助の画像を検索すると、かならず100円札の画像がでてくるほど、板垣退助=100円札の人となっています。しかし、板垣退助は100円札だけでなく50銭札にもなっているのです。

板垣退助が50銭札や100円札の肖像画として選ばれた理由はその立派な髭にあったといいます。偽札を防ぐために板垣退助の髭の細かさが重要で、さながら透かしのように真似をするのが難しかったそうです。100円札になるとより現代のお札に近い精巧で細かいものになっていき、板垣退助の髭もきれい鮮明になっているのが分かります。また印刷技術の向上のためか、100円札にはうっすら色が付き、50円札と比べると100円札のほうが偽造しにくくなっています。

100円札、50円札に選ばれたころの板垣退助の肖像画は内閣総理大臣になった頃の威厳溢れるもので、この頃の肖像画が教科書でもよく使われています。

板垣退助と妻見出し

板垣退助は気に入った芸姑を権妻にしていたため、四人の奥さんがいました。特に三番目の板垣清子のことをとても愛して、彼女が亡くなった時は泣いて布団をかぶってでてこなかったという話しは有名です。

板垣退助の墓に寄り添うように建てられた墓は四番目の妻、板垣絹子の墓となっています。板垣絹子は夫の影響を受け、女性や子のために活動し純真女学校を設立し、女子の教育に取り組んでいました。

住所:高知市薊野東町20-10

自由民権運動の生まれた場所、高知見出し

清貧で世のため日本のために働き、虐げられた身分の人々に光を当てた偉人というイメージの強い板垣退助ですが、幼少期や四人の妻の逸話を見ると、親しみがわいてきます。高知にはお越しの際はぜひ板垣退助にまつわる場所に行ってみてください。

関連キーワード

投稿日: 2017年4月5日最終更新日: 2020年10月7日

アイコン

RELATED

関連記事


  • instagram
  • twitter
  • line

公式アカウントをフォローして
最新の旅行情報をチェックしよう!

国内・海外の旅行・観光スポット・グルメ・ホテルなどの情報発信メディア

©TravelNote