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世界遺産「軍艦島」の歴史に迫る!廃墟と化した島の生活や労働の実態は?

世界遺産「軍艦島」の歴史に迫る!廃墟と化した島の生活や労働の実態は?
投稿日: 2018年7月22日最終更新日: 2021年11月22日

2015年にユネスコ世界遺産に登録された「軍艦島」。正式名称は「端島」と言い、明治から昭和にかけて海底炭鉱で栄えた島です。現在は無人島で、島にあるのは崩壊した鉄筋コンクリートの建物だけ。なぜこの廃墟となった軍艦島は世界遺産に登録されたのでしょうか?当時の歴史や生活を紹介します。

再注目される軍艦島の歴史見出し

Photo by kntrty

2015年に世界文化遺産に登録された軍艦島。日本の歴史的にも重要な島で、長崎の観光名所の一つとして海外からも多くの人が訪れる場所です。炭坑が閉山して30年近くは放置されて廃墟化が進み、隠れた廃墟の名所として有名な場所でした。今では多くの人が足を踏み入れるようになり、当時の暮らしや詳しい歴史が浮き彫りになってきました。

長崎に浮かぶ「端島」(はしま)の歴史見出し

Photo by 越智まくら

長崎港の南西、約19kmの海上にある島「端島」(はしま)は江戸時代の後期に石炭が発見され、明治23年頃から本格的に海底炭鉱として日本のために多くの石炭を供給してきました。幅約160m、長さ約480mの、東京ドーム約5個分という小さな島は、発掘作業のために徐々に拡張されていきました。

Photo by jodowakayama

人口の増加と共に多くの高層アパートが立ち並び、島のまわりは炭鉱発掘のための設備を整えるにあたってコンクリートで塀が整備されていきました。その形が軍艦「土佐」によく似ていたので、軍艦島と呼ばれるようになりました。あまりにもその姿と合致した呼称に、閉山した今も端島という名前よりも軍艦島という呼び方の方が定着しています。

炭坑としての開発された軍艦島の歴史見出し

軍艦島がまだ軍艦島になる前、端島という名前だった頃、当時の長崎では端島の領地がどこに属しているのか争っていたこともありました。近隣に住んでいた漁師が畑を作ったり、石炭を採掘したりとその当時からも使われていたのですが、1890年ごろに三菱の買収により本格的な炭坑採掘がおこなわれるようになりました。

Photo by 越智まくら

軍艦島の石炭採掘のための作業は簡単ではありませんでした。日本の石炭は地下深くにあるため、また長崎は台風の被害もひどく、竪坑ができるまでに会社が倒産してしまったりで十年以上かかりました。三菱の手が入らなければ、軍艦島での採掘はもっと遅くなっていたか、炭鉱としては使われていなかったかもしれません。

日本炭坑の歴史と軍艦島見出し

軍艦島は日本の有数の炭鉱として発展していました。日本では江戸時代から炭坑の発掘がされていた歴史があり、軍艦島も長崎の有数の炭坑でした。軍艦島に限ったことではなく、明治時代の炭坑労働というのは環境も悪く、炭坑夫として雇われていたのは囚人が主で強制労働に等しく、多くの人が命を落としました。

炭坑労働の歴史と変わっていく制度

炭坑労働は当時、納屋制度、飯場制度という労働者を管理する制度があり、狭い部屋に何十人と労働者が押し込まれ、朝から夜まで重労働をさせられました。また管理者が悪辣な場合は賃金を不当に取り上げられたり引かれることもあり、1890年には問題視され、この制度の廃止が進んでいました。

Photo by curieuxstar

納屋制度が廃止されていくにつれて、軍艦島には労働者のための住居が整備され始めました。炭坑は発展していく日本を支えるための重要性から需要が高まり、長崎以外の炭坑でも福利厚生が急速に整えられていき、賃金の良さに国外からも人が集まってくるようになりました。

軍艦島にあった炭坑労働者のための施設見出し

軍艦島は楽園だったという説と軍艦島は劣悪な強制労働所だったという説があります。しかし、前期の労働環境や後期の待遇の良さを見るに、どちらも真実だった可能性はあります。明治30年ごろには抗員700人によって労働環境の危険さからストライキが起きています。それは労働環境が良くなる前の出来事です。

Photo by kunagecva-E

軍艦島では煤まみれになった炭鉱夫たちのために無料の公共浴場が整備され、家に帰る前にそこで汗や汚れを落とすことができました。昭和18年ごろのものと思われる、朝鮮人の名前が書かれた炭坑夫の給料袋には約115円の給料が書かれています。当時日本の陸軍の二等兵の給料が約6円だったのに比べると、約19倍の金額です。

軍艦島には娯楽のための映画館があり、パチンコ店も廃墟の中に残っています。真実は定かではありませんが、遊郭も存在していたと言われています。1957年に売春防止法が施行されてからは長崎で密かに小料理屋として営業していた遊郭に行っていた人もいるといわれ、閉山するまでは隠れて営業していた遊郭に行った、という証言もあります。

軍艦島の廃墟から見る生活の歴史見出し

Photo by Travel-Picture

長崎は山の多い県でもあり、軍艦島も島の中は坂道や階段が多く、足腰の弱い人は大変な苦労があったといいます。石炭の需要が高まっていくにつれ、軍艦島では炭坑で働く人たちを募集していました。彼らが家族と暮らせるように住居を整備していきました。その中には日本で初めての鉄筋コンクリートのアパートもありました。

Photo by Kumpei Shiraishi

島とは思えないほど設備が充実していた軍艦島ですが、当初は水不足にとても困っていました。給水船と塩をつくるときに発生する蒸留水でなんとか生活していました。1950年代になり野母半島から地下を伝って水道管が引かれるまで、蛇口から水が出る生活が送れなかったといわれています。

労働者の環境を物語る30号棟見出し

軍艦島に残る住居の一つに、最も古い鉄筋コンクリートのアパートといわれているのが30号棟です。真ん中が吹き抜けになり、独特のデザインだったことがうかがえるこの建物は、炭鉱労働者のために作られたものでした。長崎だけではなく、当時の日本にもなかった7階建ての建物で、今でも外観だけはしっかりとしているように見えます。

Photo by is_kyoto_jp

風雨にさらされ台風にも負けず、いまだにそびえ建っているほど頑丈に作られた30号棟は閉山まで使われていたという説もあり。当時の写真には部屋の前に洗濯機が置かれているものもあり、三種の神器と呼ばれていた高級品を個人でも所有できていたことがうかがえます。

歴史に残る軍艦島の人口密度見出し

1960年頃、長崎は人口密度はそれほど高い場所ではありませんでした。軍艦島の島民はその当時約5000人ほどでした。人口としてはそれほど多くないと感じるかもしれませんが、軍艦島の中には半分は炭坑。病院、浄化水槽、小学校や保育園もありました。そして、なおかつ多くの人の暮らす住居の確保が必要でした。

Photo by snotch

軍艦島で最も人口が多かった時、人口密度は東京の9倍以上、世界一の人口密度でした。軍艦島のほとんどは崩れてしまって、奥まで入ることのできない場所もありますが、当時の光景を焼き付けた写真には所狭しと並んだ建物や細い路地、アパートの空間を利用して作られた公園など焼き付いています。その時の人口密度がうかがえる貴重な写真です。

歴史資料から見る軍艦島の子供たち見出し

Photo by ajari

現代の日本でも言えることですが、狭い場所で遊び場もなく子供が可哀想という意見があります。その当時を写した写真は真実を残す重要な歴史資料。白黒と言えども、軍艦島の風景を撮影した写真は多くあります。軍艦島では子供たちはどんな生活をしていたのか、その真実は多くの写真に残っています。

写真家の高橋昌嗣さんは、若い頃にアルバイト感覚で三か月ほど軍艦島で炭鉱の仕事をしていました。大変な労働だったけれど、慣れると島での生活は快適で、何不自由なく過ごせたことを語ります。そこでカメラマンとなるきっかけの写真を撮影しています。その中には子供たちの写真もあり、物珍しそうによってくる姿があります。

Photo by raybinsen

軍艦島の写真にはプールに行く子供たちの写真があり、三才ブックスから発行されている写真集「軍艦島全景」には三輪車に乗った子供や、子供の物と思われる色鮮やかなおもちゃが残された廃墟の写真があります。また当時珍しかったテレビがあちこちの廃墟の部屋にあり、テレビの普及率も高かったことがうかがえます。

強制労働はあった?軍艦島の歴史見出し

Photo by curieuxstar

軍艦島が世界遺産に登録される際に、韓国から「朝鮮人の強制労働があった」という主張から、一時期登録が見送られるという流れがありました。寝る間もなく働かされたという証言や、痩せて荷物を運ばされる炭鉱夫の写真が公開され、韓国と日本の公開した資料や事実に食い違いがあることも取り上げられました。

強制労働だったと言われる朝鮮から軍艦島への徴用が始まった時、軍艦島の炭坑夫の生活はそれまでの納屋制度が完全に撤廃されていました。危険な場所はベテランの炭坑夫が行い、怪我をしやすい労働環境だったため、その分他の職種よりも賃金が高く、徴用が始まる前には密入国してまで仕事に就こうとしていた人もいたという説があります。

韓国からは強制労働の証拠として子供や大人が痩せこけて働かされる写真が何度も取り上げられました。痛々しい白黒の写真に、多くの人が強制労働は真実だったと感じました。しかし、真実は、証拠写真としてあげられたものは2014年に韓国の公共放送EBSから、場所と時代が全く異なるものとして、ねつ造だったことが公表されています。

韓国からは軍艦島で強制労働をさせられた人達の証言があったとして、朝鮮人の強制労働は存在したという主張に対し日本は、軍艦島の炭鉱で働いていた朝鮮の人の給料明細や勤務日数などを公開しています。そこでは軍人よりも高い給料がもらえていたことや、三日に一度休みだったことが真実として残っています。

日本人にとって目をそらせない「軍艦島」歴史問題見出し

韓国からの「朝鮮人の強制労働はあったという証言がある」という証言を重くみるのであれば、同じように他の軍艦島の島民から寄せられている「朝鮮人の強制労働はなかった」という証言も同じ重さでみられなければなりません。軍艦島で炭鉱に従事していた人たちからは、強制労働に対する反論が寄せられています。

Photo by t-mizo

第二次世界大戦の時に、朝鮮から徴用された人々は食べ物がろくになかったことをあげていますが、当時は日本人でも一日イモ一個しか食べられないような状況でした。当時から閉山までを軍艦島で過ごした人は、朝鮮の人だけが特別差別されていたわけではなく、日本人も同じ状況だったと語ります。

炭鉱で無理やり働かされる人はいなかった。帰国する朝鮮の人たちと涙を流しあいながら別れた。日本語に慣れない朝鮮の人たちのために懇親会を開いた。朝鮮人の子供も日本人の子供と同じように教育を受けられた。ひどい扱いを受けたという証言とは正反対の、温かい交流があったことを証言する人は多いです。

歴史は後々に証拠が出てくることで真実が大きく変わってしまいます。もしくはどちらかが間違いだったと認めるまでは、安易にどちらが真実であるとは決めることはできません。それは外交任せにできるものではなく、日本の国民すべてにをそらすことのできない問題でもあります。

歴史の真実を残す重要性見出し

Photo by Norisa1

強制労働なや植民地問題など、何十年経って当事者が亡くなってしまっても、歴史の教科書には残っています。しかし中にはねつ造されたものや事実無根のものもあります。ただ真実として残すのではなく、外交問題や賠償問題となってしまうと、安易に結論を出すことはできません。

Photo by uka0310

現在では、見ることができなかった歴史的な資料や証言もインターネットを通じて簡単に確認することができるようになりました。その情報をもとに歴史的な問題に取り組んでいる人は多いですが、中には誤った情報を拡散しようとする人もいます。だからこそ、しっかりとした資料や証拠が必要になります。

軍艦島の歴史的な問題では、衝撃的だった証拠写真がねつ造だったとわかり、誤った資料が公式に証拠としてあげられるという事実がありました。テレビで報道しているから、権威ある人が言っているから、それだけで鵜呑みにするのではなく、その証拠が真実なのか、受け取る側にもしっかりと考えることが必要です。

島民全体が家族のようだった軍艦島見出し

軍艦島で生まれ育った人の証言では、人口密度は高かったけれど人口は少なかったので、島民全体が家族のようだったと語る人は多いです。太平洋戦争時代には日本人も朝鮮人も中国人も同じ住居で助け合いながら暮らしていたという証言もあり、別れを惜しんで抱き合ったという話もあります。

狭い場所でひしめき合って暮らしているのであれば、自然と周りの人の顔は覚えて家族のような親しみが生まれるのかもしれません。軍艦島では一度離れた人でも家族のように迎え入れてくれるという話があり、閉山を聞きつけて軍艦島の様子を見に戻った人も多かったといいます。

閉山から歴史に埋もれてしまった軍艦島見出し

軍艦島が閉山を迎えたのは1974年1月15日でした。閉山の年に島民は全員退去しています。エネルギー産業が石油や電気など他のものに移っていき、石炭需要の下降にともない、閉山が決まりました。その時の人口は約2000人。最盛期の半分以下でした。夜逃げのように荷物をそこに置き去りにしたままの人も多く、廃墟の中に多くの家具が残っています。

Photo by alexxis

閉山後、しばらくは一般公開されず誰も立ち入ることができませんでした。しかし、日本でも廃墟の美しさを楽しむ廃墟ブームが到来します。さらに映画のロケやミュージックビデオの撮影が行われるようになり、世界中からも軍艦島は注目される場所となりました。閉山後、それまでとはまったく違う形で軍艦島は日本の歴史の中で輝くようになったのです。

軍艦島は元島民の人たちにはもう一度足を踏み入れたいと思う、大切な思い出の場所でした。世界遺産となり、ツアーも組まれて訪れやすくなりました。軍艦島が広く知れ渡り、元島民の人たちにとっても嬉しいという意見もあれば、歴史の真実をしっかりと伝えて欲しいという意見もあります。

軍艦島のツアーやコンシェルジュを10倍楽しむ!映画のロケ地にも上陸! | 旅行ガイドTravelNote[トラベルノート]のイメージ
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歴史を知ればより深まる軍艦島の魅力見出し

Photo by kagawa_ymg

軍艦島は日本の炭坑の歴史において重要な場所でもあり、世界が注目する世界遺産でもあります。今後軍艦島に行くことがあれば、その前にぜひとも軍艦島の歴史を調べてみてください。軍艦島の建物がどうしていまだに残っているのか、どうしてこんな島ができたのか、知るとより興味が沸いてきます。

投稿日: 2018年7月22日最終更新日: 2021年11月22日

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