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江戸城は東京で外せない観光スポット!天守閣の再建はいつ?

江戸城は東京で外せない観光スポット!天守閣の再建はいつ?
投稿日: 2017年11月12日最終更新日: 2020年10月8日

江戸城は、東西約5.5km、南北約4km、周囲約14kmを誇る国内最大級の城郭です。江戸城の歴史は、室町時代の武将太田道灌の築城に始まり、徳川家康によって大改修され現在は皇居となっています。その本丸、二の丸、三の丸部分は皇居東御苑として一般公開されています。

国内最大級の城郭江戸城見出し

江戸城は、現在、本丸、二の丸、三の丸部分であった皇居東御苑をはじめ、皇居外苑、北の丸公園など、おすすめの観光地として多くの観光客が見学に訪れ人気の高い国内最大級の城郭です。ここでは、明暦の大火の後、二度と再建されなかった天守閣など、江戸城の歴史を振り返りながらその魅力とおすすめの人気スポットについて紹介します。

太田道灌によって築城された江戸城見出し

平安時代末期の武将、江戸重継の居城として後の本丸、二の丸付近に置かれていたとされ、その後、扇谷上杉氏の上杉持朝の家臣であった太田道灌によって1457年に築城されました。当時の江戸城は、1590年に徳川家康が入城するまでは、三重構造の城を切岸と水堀が巡り門と橋で結んだ、実に質素な造りであったとされています。

徳川家康による大規模な江戸城改修工事見出し

1590年に、豊臣秀吉から関八州を与えられ駿府から江戸へ入城した徳川家康は、いままでの本丸、二の丸に加えて西の丸、三の丸、吹上、北の丸を増築します。また江戸城へ物資を運ぶ平川河口の呉服橋門から江戸城の和田倉門まで1kmの人口水路となる道三堀を作り、その残土で西の丸下の埋め立てを行い同時に町造りを行っています。

当初の江戸城改築は、豊臣政権時代の大名だった徳川家本拠としての改築であり、その後の江戸幕府時代の改築とは少し意味合いが異なります。徳川家康が最初に江戸に入城した際は、荒れ果てた江戸城があり、西南の台地は、ススキの野原が武蔵野平野に広がっており、城の南は日比谷の入り江で沖合いには砂の堆積が広がっていたとされます。

天下普請を発し大規模な江戸城改修に着手見出し

関ヶ原の戦いで政権を掌握した徳川家康は、1603年江戸開府と同時に、大規模な江戸城改修工事に着手します。天下普請を発し全国の諸大名に命令して、城郭を含めた道路整備や河川工事を行い、1660年までの57年の歳月をかけ本丸、二の丸、三の丸に加え、西の丸、西の丸下、吹上、北の丸の周囲16kmにおよぶ区画を本城としました。

三度の修復工事が行われた江戸城天守閣見出し

1607年に、関東、奥羽、信越の諸大名に命じ天守台および石塁などを修築一度目の天守閣完成となります。その後1622年に本丸拡張工事を行い、天守台、御殿を修築二度目の天守閣完成。そして1637年に、石垣、城門を除く外郭の修築工事と天守台、御殿を修築し翌年1638年に三度目の天守閣完成となります。天下普請は1660年まで続きます。

一極集中する巨大都市大江戸が完成

大江戸と言う言葉は、18世紀の中頃から呼ばれるようになります。その頃には人口100万を超える都市になっており、北京やパリを凌ぐ巨大都市となっていました。その人口増加の背景には、参勤交代制度が大きな影響を及ぼしています。諸大名とその家臣も含め人と物資が江戸の町へ集中することとなり大江戸となっていきました。

天下普請による江戸城の拡張工事と合わせて日比谷入江の埋め立て、外堀川の工事を行っています。その工事分担は、外郭石普請が細川忠興、前田利常、池田輝政、加藤清正など、天守台の築造が黒田長政、石垣普請が山内一豊、藤堂高虎、木下延俊、本丸の普請が吉川広正、毛利秀就という蒼々たる大名の布陣でした。

明暦の大火による江戸城天守閣の焼失見出し

1657年3月2日から4日にかけて江戸で起きた明暦の大火により、江戸城も甚大な損害を被り天守閣は焼失してしまいます。日本史上最大とも言われた明暦の大火により、江戸の大半が焼失したことを受け、天守閣の再建よりも町の復興を優先し、また経済的な理由からもその後天守閣が再び再建されることはなく、今日に至ります。

墨田区にある両国回向院は、当時の将軍、徳川家綱の幕命により明暦の大火の犠牲者を供養するため建立された寺院です。あらゆる宗派だけでなく人、動物すべての生あるものを供養するという理念から、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数あります。江戸三十三箇所観音参りの第4番札所でもありおすすめの見学スポットです。

現存する遺構江戸城外堀跡地見出し

東京地下鉄虎ノ門駅11番出口、文部科学省が入居する霞ヶ関コモンゲート東館前広場に江戸城外堀石垣の一部が保存されています。文部科学省を建て替えの際に、発掘、整備されたもので、この石垣の手前に外堀がありました。霞ヶ関ビルから歩道橋で外堀通りを渡る途中に、ツタに覆われた櫓の跡の石組みが見えるおすすめの見学スポットです。

枡形門としての特徴を持つ江戸城の門見出し

江戸城の門は、出入口としての役割の他に、攻めてくる敵を防御する役割を併せ持っていました。城門の内側にL字形の城壁を設け、空間の辺に城門を構え、曲輪内に入るのに二つの門を通るようにしたもので、外側に高麗門、内側に渡櫓門が設けられています。全ての門がこの枡形門になっていて容易に攻め入ることの出来ない鉄壁の門です。

桜田門外の変で有名な桜田門

江戸の門は第一の門と枡形に位置する第二の門によって出来ており、桜田門もその形式です。この桜田門で有名な事件が、大老井伊直弼が襲撃された桜田門外の変です。現在の国会の前辺りになる井伊家の屋敷から桜田門を通り江戸城へ登城するまでのわずかな間に、多くの見物人に紛れ込んでいた水戸藩士によって暗殺されてしまいます。

2010年10月16日より全国公開された映画「桜田門外ノ変」予告編の動画です。吉村昭の同名小説を映画化したもので、幕末の歴史に大きな影響を与えた井伊直弼暗殺事件「桜田門外の変」を再現した本格時代劇です。水戸藩士の首謀者に大沢たかお、井伊直弼に伊武雅刀と豪華出演者で話題を呼んだ映画です。当時の様子がよくわかります。

桜田門二つ目の渡櫓門

襲撃者は、第一の門である高麗門を突破したとしても、次の第二の門である渡櫓門に進行を阻まれてしまいます。そうして高麗門と渡櫓門に挟まれた侵入者は、そこで番所に待機していた警護の反撃を受けることになります。江戸城の門構造は全てにこの枡形となっており、敵の侵入を防ぐ強固な要塞としての役割を持っていました。

田安門

国指定の重要文化財となっている田安門は、1636年に建てられたと考えられています。北に面する高麗門とその西側に直交する渡櫓門からなる枡形門です。この田安門がある北の丸公園を南北に分け西側を八代将軍吉宗の第二子宗武が興した田安家、東側を清水家が所有していました。現在は田安門から北の丸公園へは自由に見学できます。

清水門

第一の高麗門を突破したとしても二番目の渡櫓門の見上げんばかりの威風堂々とした造りに攻め入る敵は恐れをなしたことでしょう。清水門の渡櫓門は、隣にある現在のビルと比較してもその高さが伺えます。櫓の上部から矢を放つなどして広場に留まる敵を一掃していたことが想像され、実に戦闘用の門でもあったことが分かります。

江戸城の櫓見出し

富士見櫓

五層の天守焼失後にその役割を果たしていたのが富士見櫓とよばれる三重櫓です。現在の櫓は1659年に再建されました。石垣の高さは約14.5m、櫓の高さは約15.5mになり、この石垣を作ったのは主に加藤清正公と言われています。現存する遺構としても貴重なもので、皇居見学の際のおすすめの観光スポットとして人気です。

伏見櫓多聞櫓

伏見櫓は関東大震災で倒壊してしまったために解体し復元されました。写真は正門石橋のところからで、皇居見学の中でも最も美しいとされるおすすめの人気スポットです。右側手前にあるのが十四間多聞櫓です。その奥には十六間多聞櫓が残っています。一般参賀で皇居を訪れた際には、ぜひとも押さえたい人気のおすすめ観光スポットです。

誤認されがちな二重橋

二重橋は、皇居内にある橋の通称で、正式には正門鉄橋といいます。皇居の正門から長和殿への途上二重橋濠に架かる鉄橋のことで、通常は通ることは出来ませんが、事前手続きをして皇居参観の場合は渡ることができます。よくこの写真にある石橋が二重橋としてインスタにもアップされていますが、こちらは二重橋ではありません。

こちらが正式な二重橋です。皇居入口には、石で作られた正門石橋と鉄で作られた正門鉄橋という2つの橋があります。2つあるから二重橋かというと、そうではなく奥の鉄の橋の構造が上下二段の構造になっていることから二重橋と呼ばれるようになったということです。通称となってる二重橋が誤認される所以で見学の際に確認できます。

桜田巽櫓

堀の水面に迫立つように建てられた桜田巽櫓は、水面の水色に白亜の壁をしたコントラストが美しいおすすめの人気見学コースのひとつです。よく水中から石垣を伝わって登るシーンが映画などでありますが、実際には非常に難しく、要塞としての機能面も兼ね備えており、外側からは容易に進入出来ないようになっています。

警備の詰所だった江戸城の番所見出し

大番所

番所とは、門の警備をするための警備の者が詰める建物のことで、大番所は、大手中の門を警備し他の同心番所や百人番所よりも位の高い与力や同心によって警備されていました。江戸城本丸への最後の番所であり、その役割は極めて重要であったとされます。前の坂を上がったところに本丸への入口となる最後の門、中雀門がありました。

同心番所

同心番所は幕府の下級武士である同心達の詰所です。本丸大手門を警備する詰所で、江戸時代後期の建物が修理復元されて残っています。主に登城する大名の供のものを監視する役割を果たしていて、今でいう検問所のようなものです。ちなみにこの同心番所の鬼瓦には徳川家の家紋である葵の紋が残っています。

百人番所

同心番所を通り、本丸大手門の渡櫓門を抜けたところに長さ50mを超える百人番所があり、おすすめの人気スポットです。本丸入口にある江戸城最大の番所で、ここには鉄砲百人組と呼ばれる根来組、伊賀組、甲賀組、二十五騎組の4組が交代で詰め、それぞれ与力20人、同心100人で昼夜を問わず24時間体制で警備に当たっていたとされます。

江戸城二の丸跡地の回遊式庭園見出し

江戸時代に二の丸庭園として、小堀遠州によって造られましたが、度重なる火災などで焼失してしまい明治以降は荒廃していました。そして昭和39年に、九代将軍徳川家重の時代に作られた庭園の絵図面をもとに今の回遊式庭園が完成しました。本丸に比べて10m以上の高低差がある低地にあり、脇の堀も湧水から成り立っています。

諏訪の茶屋

江戸時代には吹上御苑にあったとされ、今の建物は明治45年に再建されたもので、昭和43年、皇居東御苑を整備する際に二の丸跡地へ移されました。数奇屋造りの茶室で優雅な外観を誇ります。無料で見学することができますが、外観のみ見学が可能で内部に入ることは出来ません。手前の庭園と合わせて人気のおすすめ観光スポットです。

天守台だけが残っている江戸城天守跡地見出し

現存する天守台は、高さ11m、東西約41m、南北約45mもの巨大な城台です。明暦の大火で寛永度天守閣が焼失した後に、加賀藩4代藩主前田綱紀によって築かれました。天守台の上は展望台になっており、都内を見渡すことができます。皇居江戸城観光の押さえとして多くの観光客が見学に訪れる人気の高いおすすめの観光スポットです。

江戸城は様々なドラマが生まれた場所見出し

ペリー来航や桜田門外の変、そして大政奉還など数々のドラマがここ江戸城を舞台に繰り広げられました。NHKの大河ドラマなど、この江戸城城郭においてロケ地となることもしばしばで、そうしたロケ地巡りをするのも江戸城観光地の楽しみ方のひとつです。特に桜田門外の変の場所は人気の観光撮影スポットとして見学者が多く大人気です。

江戸城の現存する遺構を元におすすめの見学スポットを紹介する動画です。天守閣があった天守台をはじめ、皇居周りの名所や遺構の数々は見どころがたくさんあり、とても一日で見て回ることは出来ません。それぐらいに広大な江戸城郭は、今から360年前の歴史の重みと長きに渡る壮大なロマンを感じさせてくれます。

江戸城再建を目指す会見出し

写真は、NPO法人江戸城再建を目指す会によって発表された天守閣模型をCG合成ではめ込んだものです。こうやって見ると中々壮大な建物であったことが理解できます。姫路城の面積で2倍、体積で3倍となる木造建築の最高傑作であったと言われています。今現在、寛永度天守閣の再建を目指す会で実現へ向けてその活動が行われています。

江戸城観光は東京観光のメインスポット見出し

都心の真ん中にこれだけの広大な敷地面積を誇る城郭が残るのは世界的に見ても類のないことで、今回ご紹介したもの以外にもまだ紹介出来ていない見どころ名所が数多くあります。260年以上もの長きに渡って続いた江戸時代を考えると、その後現在までまだやっとその半分ということからしても、江戸城の歴史は奥が深いものといえます。

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投稿日: 2017年11月12日最終更新日: 2020年10月8日

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