ひこにゃんで人気、彦根の名前の由来は?
彦根市は、琵琶湖東北部にあって人口11万3千人の都市です。「彦根」という地名は天照大神の御子の1人活津彦根命(イクツヒコネノミコト)が彦根山(彦根城が築かれた山)に祀られたことに由来します。ここは京都にも近いので、歴史的に重要な地でもありました。今日は、ひこにゃんで人気のスポット彦根城の話です。
彦根城の特徴1
現存天守・国宝五城の1つ
日本の城には、現存天守閣を持つ城が12あります。姫路城、彦根城、松本城、犬山城、松江城、弘前城、備中松山城、伊予松山城、宇和島城、高知城、丸亀城、丸岡城がそれに当たります。現存天守閣というのは、創建当時のまま保存されている天守のことで、彦根城は、まさに1622年に建てられた時のままの天守閣を備えているのです。
国宝になった城は日本に5つあります。その中でも人気のスポットのひとつが彦根城です。国宝になった城というのは、姫路城、彦根城、松本城、犬山城、松江城ですが、彦根城は、天守と付櫓(つけやぐら)・多聞櫓(たもんやぐら)などが国宝に指定されていて、現存する櫓・門など5棟が国の重要文化財に指定されています。
彦根城は丘陵上に建った平山城で、本丸、西の丸、鐘の丸、山崎曲輪(やまざきくるわ)を配した連郭式構造という造りを取っています。天守は三層四階で、付櫓が接続された複合式の構造になっています。また、この城は、ある特別な事情からリサイクル建築を余儀なくされたユニークな城です。そのことを次にご説明します。
彦根城の特徴2
琵琶湖畔の名城古材を利用
彦根城の建設が始まったのは1603(慶長8)年です。関ケ原の戦いが終わった直後ですが、徳川方にとっては、まだ豊臣恩顧の大名が勢力も持っていた時代なので、油断ができない状態でした。そこで、大坂城への包囲網の拠点として完成が急がれたのが彦根城でした。なので、彦根城は築城のスピードが優先されたのです。
そこで、彦根城の天守は、大津城を解体した時の材木を利用してつくられました。また、西の丸の三重櫓は小谷城から、太鼓門は佐和山城から運び込んで移築したのです。他にも、石田三成の居城だった佐和山城や、古城の大津城・長浜城・安土城などの石垣の石や櫓や城門などがその建築に利用されたと言われています。
彦根城の特徴3
2時代の特徴を持つ城
彦根城は、中世の城と近世の城の特徴を合わせて持つ城です。城マニアには、これが人気スポットの理由となっています。中世までの城は、刀槍戦の時代ですから山城が中心で、城周辺に塀を作り、跳び越せない程度の堀が巡らされていました。戦国時代半ばに鉄砲が伝わると、集団戦になり、防弾と鉄砲を利用できる構えが必要になりました。
彦根城の中世的なところは、山を登りにくくする目的で山すそを断崖にしているところ、天秤櫓の下に水のない堀である空堀を設けているところ、山のまわりに掘られた5つの竪堀などに見られます。竪堀というのは、山の斜面に掘られた空堀で、敵の侵入を防ぐために造られたものです。彦根城はこんな造りを観察するのも人気となっています。
近世の城としては、防弾用に天守の壁に栗石をつめる工夫などがあります。栗石というのは、栗の実ぐらいの小さな丸い石のことで、基礎工事ではよく使われますが、築城の際には主に石垣に使用されます。それを壁の中に入れたというがユニークです。簡単には登れない高い石垣も、近世の鉄砲時代の城にふさわしいものになっています。
彦根城の特徴4
華麗な意匠と強固な造りの城
彦根城の中心をなしたのが、天守閣のある本丸スポットです。現在の本丸には天守閣の建物しかありませんが、かつては藩主の御殿である「御広間(おんひろま)」や「宝蔵」、「着見櫓(つきみやぐら)」などがありました。3階3重の天守閣は、比較的小ぶりですが、屋根は多様な破風を施していることに特徴があります。
天守閣の破風は、「切妻破風(きりづまはふ)」「入母屋破風(いりおもやはふ)」「唐破風(からはふ)」から成り、2階と3階には「花頭窓(かとうまど)」、3階には高欄付きの「廻縁(まわりえん)」が巡らされています。外観に重きを置くこの造りは、通し柱を用いないで、各階ごとに積み上げていく方式をとっています。
天守閣の構造自体は、全体として櫓の上に高欄を付けた望楼を乗せる古い形式を残していると言われています。この天守閣を正面から見ると、小ぶりで思ったよりも低く見えますが、この天守閣を下から見上げると、いかにも堂々として大きな城に見えます。この視覚的効果を狙った造りも、彦根城が人気スポットになる理由になっています。
彦根城の特徴5
彦根城のお宝建造物
[天秤櫓(てんびんやぐら)]秀吉が建てた長浜城大手門を移築したと言われています。廊下橋を中心に左右対称に櫓が並び、その姿が天秤に似ているのでこの名が付きました。こういった櫓の形は彦根城だけだと言われていて、国指定の重要文化財になっています。ここは敵の侵入を防ぐ要になる所で、彦根城の中でも人気のスポットです。
[太鼓門櫓(たいこもんやぐら)]城中合図の太鼓を置いたことからこの名が付いたようです。迫力ある楼門ですが、本丸表口を固める重要な場所でもありました。彦根寺楼門が移築されたとか、佐和山城か長浜城の城門を移築したとか言われていますが、移築前の建物の痕跡と見られる釘跡が残っています。これも国指定の重要文化財です。
[天守]国宝です。規模は小さいですが、屋根の曲線の調和と花頭(かとう)窓が配列されているのが、美しい荘厳な雰囲気をつくっています。花頭窓とは、上枠を火炎形や花形に装飾した特殊な窓のことです。天守は、牛蒡積(ごぼうずみ)みと呼ばれる、重心が内下に向くように作られた自然石の石垣に支えられています。
[他の国宝と重要文化財]国宝としては、天守の他に、付櫓及び多聞櫓や彦根屏風があります。重要文化財になっているものでは、太鼓門及び続櫓と天秤櫓の他に、西の丸三重櫓及び続櫓、二の丸佐和口多聞櫓、馬屋、我宿蒔絵硯箱があります。特に馬屋は、全国の城郭に残っている馬屋として他に例がない貴重なもので、必見のスポットです。
彦根城の特徴6
時を超えて鳴り響く鐘の丸の時報鐘
江戸時代、彦根城に登城する際、太鼓丸から毎日決まった時間に鐘の音が聞こえたそうです。鐘は朝から3時間おきに、6時、9時、12時、15時、18時の1日に5回鳴りました。築城当初、鐘は鐘の丸に設置されていたのですが、遠くまで音を届かせるために、太鼓門近くの高台に移されたと言われています。この鐘の見学は人気があります。
この時報鐘を聞くたびに、時の領民は生活の安堵を覚えて天守を眺めたことでしょう。と、過ぎた時代を語るような言い方をしていますが、実は、その歴史的習慣が今も続いているのです。現在の彦根市民も、時報鐘で時を知り、城を見ながら生活を営んでいるのです。この時報鐘は環境庁の「日本の音風景百選」にも選定されています。
彦根城の歴史1
井伊家繁栄の祖・井伊直政
井伊直政は1561年2月19日に遠江国井伊谷の祝田(今の静岡県浜松市にある地区)で生まれました。父親の井伊直親は、今川氏真の家臣でした。衰退を辿る今川家の下で紆余曲折あった井伊家は、1565年、父の従妹となる尼が井伊直虎と名乗り、井伊家の家督を一時的に継ぎます。これが今年のNHK大河ドラマの時代となっていますね。
その後も井伊家は大変な時代を生きますが、井伊直政(虎松)の転機は、1575年2月に、浜松城から鷹狩りに出た徳川家康と出会った時でした。家康は直政を家臣に加えますが、井伊家を代行していた養母の井伊直虎が1582年に亡くなると、井伊直政が正式に井伊家を継ぐことになりました。井伊直政は大河ドラマで人気が出ることでしょう。
虎松は、1582年、22歳で元服すると井伊直政と改名し、徳川家康の養女を正室に迎えました。これ以降、本多忠勝や榊原康政らと共に徳川家康の大きな支えとなっていきます。徳川家康が武田氏の旧領である信濃・甲斐も支配すると、4万石に加増された直政は、武田家の旧家臣を井伊家に加え、家康にとって軍事的に重要な家臣となります。
井伊直政は、家康の命により、武田方の山県昌景の軍装を採用して「井伊の赤備え」と呼ばれる精鋭部隊を作りました。井伊の赤備えは、歴史ファンには人気の軍装ですね。赤備えの軍律は厳しかったようです。合戦では、直政自らが先陣に立つほど戦いを好んだので、「井伊の赤備え隊」は、重武装なのに戦の度に傷を負っていたと言われます。
井伊直政は、外交交渉にも長けた人物でした。特に、関ヶ原の戦い前に、黒田長政など反石田三成派の諸大名との交渉力には優れたものがあります。黒田官兵衛・長政父子を徳川勢に組み入れた実績は大したものです。関ヶ原の戦い前には、家康に度々危険が迫りましたが、その度に直政の機転で家康は難を逃れています。
1600年の関ヶ原の戦いで、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命された井伊直政は、東軍指揮の中心的役割を担いました。戦いで直政は、西軍の宇喜多秀家・小西行長と戦ったという説と、敵中突破退却を行った島津義弘と戦ったとする説がありますが、最近では島津勢と戦った説が有力視されています。直政は島津勢との戦いで傷を負います。
関ヶ原の戦い後、井伊直政は、石田三成の旧領である近江・佐和山城(滋賀県彦根市)18万石を与えられました。ところが、その後直政は、関ヶ原で島津勢から受けた鉄砲傷が癒えず、破傷風で1602年2月1日に死去してしまいます。享年42歳でした。この時の直政の主な家臣達は、後の彦根藩を支えていく柱となっていきます。
彦根城の歴史2
井伊家の基盤を固めた井伊直継の活躍
彦根城の築城は1603(慶長8)年に始まりました。伊井直政の嫡男直継(なおつぐ)が城主のときでした。彦根城は、大坂城に残る豊臣家と西国大名を監視するための重要なスポットに建つ城だったため、築城は急を要するものでした。また、伊賀、伊勢、尾張、美濃、飛騨、若狭、越前の7ヵ国の大名に、彦根城普請の援助が命じられました。
しかし、築城中に徳川家と豊臣家との争いが本格化。結局城が完成したのは1622(元和8)年のことで、20年近くもかけて彦根城は築城されたことになります。この時の城主は、直継の弟である伊井直孝(なおたか)に代わっています。直継は病弱であったため隠居することとなり、弟の直孝が家督を継いだのです。
その後も、井伊直孝の子孫が彦根藩主を継承していきます。直孝は、直継が家督を継いだ時は、病弱な兄をよくサポートして、兄のかわりに大坂冬の陣に出陣しています。ところが、真田丸の戦いで軍令違反の抜け駆けをし、真田幸村に撃破される失態を犯してしまいます。しかし、徳川家康はその勇猛果敢さを賞賛しました。
家康は、直孝の戦いぶりを、父直政譲りの豪勇ぶりとして賞賛したのです。その為、冬の陣終了後に直孝は、兄の直継に替わって、井伊宗家の家督継承を家康から命じられます。大坂夏の陣での直孝は、藤堂高虎と共に先鋒となり、豊臣秀頼親子ら一行を自刃に追い込むまでの活躍を見せました。
彦根城の歴史3
井伊直孝とひこにゃんの意外な関係
直孝は「招き猫」の逸話で有名な武将ですが、ひこにゃんとも関係があります。逸話は東京都の豪徳寺に伝わるものです。直孝が鷹狩りの帰りに、豪徳寺前で住職の飼い猫が手招きするように見えたので、直孝は寺に寄って休憩しました。すると雷雨となり、雨に濡れずに澄んだ井伊直孝は、後日、豪徳寺にお礼として多額の寄進を行いました。
この猫が死んだ時には、丁重に弔われて境内に招猫堂が建てられたそうです。これが「招き猫」がつくられるようになった所以だと言われています。実は、この「招き猫」と井伊直孝の「赤備え」から、あの人気ゆるキャラの「ひこにゃん」が誕生したんですよ。[豪徳寺+招き猫+井伊の赤備え=ひこにゃん]なんですね。
彦根城の歴史4
ひこにゃんも驚く、菊が咲かない城の人柱伝説
病弱な直継が井伊家の頭首だった時期、彦根城の築城が進んでいました。後は天守閣のみとなったところで、どうにも工事が進まなくなってしまいます。こういった場合、当時は人柱を用いるのが慣例でした。工事が進まないことに普請奉行が困り果てていると、「ならば、人柱を立てよ」という命が井伊家から下ります。
人柱は若い生粋の娘が選ばれるのが慣例でした。そんな娘がいるのかと困惑していた普請奉行の前に、彼の娘が人柱になると名乗り出たのです。娘は「お菊」と言いました。驚いた捨両親は必死で娘を説得しましたが、殿様と命をててご奉公したいという娘の熱意に屈した両親は、娘を伴って登城し、直継に拝謁しました。
喜んだ直継は、お菊が人柱になるための準備を丁重にしました。人柱を立てた後、工事は順調に進み、やがて名城となる彦根城が完成したのです。ところが、それ以来、この城にはなぜか菊の花が咲かない、飾ってもすぐに枯れてしまうという珍事が起きます。それはお菊の浮遊霊のせいではないかと噂がたち、城は霊感スポットになりました。
娘が人柱になって悲しみに打ちひしがれていた普請奉行に、ある時、お城から出仕の命令が下されました。「何事か!」と普請奉行があわてて登城すると、奥の間に通された彼は、あるひとりの女性と面会します。なんと、その女性は彼の娘だったのです。実は、城主の直継は、人知れずお菊さんを助けていたのでした。
直継は、礎石の下に空の木箱だけを埋め、お菊さんを助けていました。「人柱を立てよ」と騒いだのは重臣達で、直継自身は人柱に反対していました。重臣達の目を欺くために、空の木箱だけを埋めるという芝居をしたのです。もしかすると、直継の心優しい思いが天に通じることで、それ以降菊の花がお城に咲き始めたかも知れませんね。
彦根城の歴史5
悪人と言うことはできない井伊直弼
井伊家と彦根藩を有名にしている人物と言えば、やはり幕末の大老井伊直弼でしょう。井伊直弼は、1815年(文化12年)10月29日に、彦根城の一角にある「槻御殿(けやきごてん)という屋敷で生まれました。直弼にはたくさんの兄弟がいましたが、皆病弱で死んだりしたので、実際は4人兄弟で屋敷暮らしをしていました。
兄弟が多かった上に庶子でもあったので、養子に行くこともなくて、父の死後、三の丸尾末町の「埋木舎」という屋敷に移り、17歳から32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごしました。この頃の直弼は勉強熱心だったと言われます。直弼は幼いころから、読み書き、儒教、剣道、弓道、乗馬などを彦根藩の学者から学んだようです。
直弼が32歳の時、突然、藩主で兄の直亮から江戸へ来るように言われました。その時、直亮の跡継ぎとなっていた世子の直元が亡くなったため、直弼を跡継ぎにする話が進んでいたのです。この後、大名見習いとして江戸で暮らしをした直弼でしたが、直弼36歳のときに直亮が亡くなり、直弼が彦根藩の藩主となりました。
殿様になった直弼は、直亮の残した資産を、家来や彦根藩の住人のために使いました。このときの金額は1年間の彦根藩の収入と同じくらいだったと言われます。また、彦根の村人の生活を見てまわり、何年もかけてすべての地域の暮らしを調べた上で、生活の苦しい人や病人に救いの手を差し伸べています。直弼は領民に人気のあった藩主でした。
安政の大獄のために、現代では人気のない井伊直弼ですが、かなり頭の良い殿様だったようです。直弼が藩主になって3年後の1853年(嘉永6年)6月3日、日本を揺るがす大事件が起きます。4艘の黒い船が浦賀沖に姿を現したのです。この黒船来航から混迷の幕末史が始まるのですが、その一大事の時に大老となったのが井伊直弼だったのです。
日本との貿易を強く望むアメリカは、1858年(安政5年)に外交官ハリスを下田に滞在させ、幕府と話し合いを進めていました。幕府では、アメリカとの交易をする考えが強かったのですが、京都の朝廷が孝明天皇を中心に猛反対していました。同じ頃、将軍後継者選びで、幕府や大名が2つに分かれもめていました。
この幕府の大ピンチに、井伊直弼が幕府の大老となったのです。1858年(安政5年)4月23日、直弼44歳の時でした。大老となった直弼は、毎日江戸城で老中たちの話し合いを行いましたが、6月19日、ついにアメリカと日米修好通商条約を結ぶことになりました。この条約によって、日本は大きく開国に舵を切ることとなります。
同時に、この条約は、日本を混乱に陥れるものとなりました。直弼は、条約を結んだ幕府一番のリーダーであったのですが、朝廷や大名の一部の人々が、天皇の許しを受けずに条約を結んだと直弼を責め立てました。これが原因となり、この後に大きな政治的混乱が起きてしまいます。世に言う「安政の大獄」です。
井伊直弼が一方的に条約を結んだことに対して、開国に反対する水戸藩主徳川斉昭たちは、京都の公家に頼んで、直弼の政治を批判する天皇の命令書を出させる画策をしました。 当時、大名は天皇や公家と直接政治の話をしてはいけない決まりがあったので、直弼は天皇の命令を出すために働いた人々を逮捕し始めました。
これが安政の大獄の始まりです。直弼は、水戸藩の家来や、幕府に反対する思想を広める吉田松陰など多くの者を捕らえていきました。直弼は、水戸藩が持つ天皇の命令書を朝廷に返すよう、水戸藩に強く迫ったため、水戸藩と井伊直弼の関係が大変悪化してしまいました。これが「桜田門外の変」へとつながっていきます。
1860年(安政7年)3月3日、江戸城では桃の節句の儀式が行われる予定でした。午前9時ごろ、直弼は駕籠に乗って屋敷を出発しましたが、行列の先頭が桜田門近くに来た時、1発の銃声が鳴り響きました。それを合図に18人の侍が直弼の駕籠に襲いかかりました。彼らは水戸藩と薩摩藩の家来達で、直弼の家来達と乱闘になりました。
この日は前夜に降った雪が積もっていました。乱戦は熾烈を極め、8人が死んで、多くのけが人を出したと言われています。直弼も水戸藩士に切り殺されました。一説には、安政の大獄が一段落した時、直弼は自分の命が危ないことを予測していたようです。ひこにゃんのキャラは、井伊直弼の悪いイメージを和らげてくれますね。
彦根城の歴史6
明治維新期の彦根藩
徳川幕府筆頭の譜代大名であった井伊家ですが、明治維新の戊辰戦争(1868年)の際、彦根藩は早々に徳川旧幕府軍を裏切って官軍についたのでした。徳川四天王と称された井伊家の彦根藩が、なぜ旧幕府軍を裏切ったのでしょう?いろいろ理由はありますが、1つには、桜田門外の変後の幕府の対応に対する不満がありました。
彦根藩は幕府に対して並々ならぬ恨みを持っていたのです。桜田門外の変に対する幕府の処分は、彦根藩にとって納得するものではありませんでした。井伊直弼の護衛にあたっていた彦根藩の浪士達のほとんどは、藩主を助けることができなかった罪で、切腹や斬首を幕府から命ぜられています。幕府の為に戦ったのに処罰されたのです。
彦根藩が徳川幕府を見限った理由には、「朝敵」と見なされることへの怖れもありました。新政府軍が、大制復古の大号令を出したことで、旧幕府軍に味方する藩は全て朝敵と見なされました。彦根藩を守る井伊家にとっては、お家の存続が第一ですから、朝廷の敵と見なされて攻撃されることだけは避けたいところです。
思えば、京都の朝廷に近い彦根藩ですから、戊辰戦争の際、もし旧徳川幕府軍の味方になっていたら、まっ先に攻撃されてもおかしくなかったのですね。もしもそうなっていたら、彦根城は今のように現存の姿を残していなかったかも知れません。戊辰戦争最大の城郭戦となった会津若松城のように無残な城になっていたことでしょう。
彦根城の歴史7
彦根城解体の危機
1868年、明治維新とともに、新政府は廃城令を公布しました。武士の世は終わり、城郭の解体が全国で始まりました。彦根城も解体される予定でした。ところが、明治天皇の北陸巡幸に同行していた大隈重信が、彦根城に立ち寄った時のことです。城の美しさに驚き、その消失を惜しんだ彼は、天皇に保存を願い出ました。
彦根城は、大隈重信の進言による天皇の命で解体が中止されたのですが、一説には、天皇の従妹にあたるかね子夫人が、近江町長沢の福田寺で小休止されていた天皇に奉上したとも言われています。明治の新しい世になっても、人々を魅了する彦根城は、時代の生き証人としてのスポットとして大切に扱われたと言えるでしょう。
市街地にもある城の魅力
いかがでしたでしょうか?城の魅力は、もちろん城郭と歴史を知ることで深まりますが、筆者は、城下町の市街地を探索することでも魅力が分かると思っています。彦根市もそうなんですね。彦根の城下町が完成した時には、3重の堀によって4区画に別れていたそうです。そうした頃の痕跡を街中に探るのも面白いものです。
彦根城でひこにゃんに会った後は、彦根城ゆかりの地に出かけるのもいいでしょう。彦根市には、玄宮園や龍潭寺、清凉寺といった、井伊家と縁のある観光スポットが各地にあります。埋木舎と天寧寺は、井伊直弼ゆかりの地です。そのような歴史的名所もチェックした上で、ぜひ彦根市を訪れてみてください。佐和山城跡などもおすすめですよ。
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